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バッハ「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」BWV639 [器楽曲]

J.S.バッハ(1685~1750)はワイマール時代と呼ばれる時期(1708~1717、23~32歳)に、ザクセン=ワイマール公国の宮廷オルガニスト、後に宮廷楽団楽師長に就任し、若きオルガニスト・ヴィルトーゾとして活躍し、有名な「トッカータとフーガニ短調BWV538」などを残している。
この時期のオルガン小曲集BWV599-644として、ルター派讃美歌の前奏曲として45曲(46曲?)のコラール・プレリュードを作った。
そのなかでもとりわけ有名なのが

コラール前奏曲「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」
          "Ich ruf zu dir,Herr Jesu Christ." BWV639

である。

もともとの讃美歌は次のようなものであったらしい(讃美歌の楽譜も探したが見つけられなかった)。

 わたしはあなたに呼びかけます、主 イエス・キリストよ、
 わたしは願います、わたしの嘆きをお聞きください
 この日々の間、私に恵みをお与えください、
 わたしをどうか怯えさせないでください。
 真の道(信仰)を、主よ、わたしは思います、
 あなたはわたしにそれを与えることを望んでいると、
 あなたの為に生き、
 わたしの隣人に役立ち、
 あなたの言葉をそのまま守る為に。


ボクはまださしてバッハに興味を持っていなかった頃、タルコフスキー監督の映画「惑星ソラリス」(1972年、ソ連)を観て、テーマ曲だった電子音楽編曲でこの曲を知った。
この映画はボクの「マイベスト1」ともいえるほどのめり込んだ映画で、東京勤務時代はまだビデオなど持っていなかったので、ミニシアターでリバイバル上映されるのを仕事帰りに観に行った。

映画の美しさとこの曲の美しさはボクのなかでは渾然一体となっている。
この曲を聴くたびに、川の水流になびく水草や美しくも哀しいヒロイン・・・ハリーの姿が浮かんでくる。


タルコフスキーの「惑星ソラリス」は、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの"SOLARIS"(邦訳「ソラリスの陽のもとに」ハヤカワ文庫)を原作とした映画である。

惑星ソラリスの探査ステーション内で科学者たちに異常事態が起こっていることから、心理学者ケルビンが調査に送り込まれた。
ステーションに着くなり、ケルビンは科学者以外にいるはずのない「人影」を見かけるなど異変に出会った。やがてケルビンの身にも、むかし自分が原因で自殺したはずの妻ハリーが現れ、哀しい逢瀬を重ねていく。
自分が本当の妻でも人間でもないことに気付いたハリーが、それでも夫ケルビンのことを愛していて、周囲の科学者たち以上に自己の存在について人間的に苦しむ...といった姿が切なく美しい。

タルコフスキーの映画は原作以上に「人間とは何か」という哲学的とも宗教的ともとれる「問い」を突きつけている。
そこに流れるバッハのコラール・プレュードBWV639が、さほど甘美なメロディでもなく、禁欲的に感情が抑えられているものの、素朴な美しさを湛えていて、胸に響く。


ボクはずいぶん昔にLEA POCKET SCORESのJ.S.BACH "THE COMPLATE ORGAN WORKS VOL.II"のスコアを買っていた(現在ならフリー楽譜ダウンロードできる・・・P.55)。
この曲の演奏の入った


ヘルムート・ヴァルヒャ J.S.バッハ:オルガン作品集II 

と併せて買っていたようである(現在は違ったアンソロジーで「オルガン名曲集」になっている)。ヴァルヒャは速いテンポであまりにそっけなく弾いている。
YouTube動画のトン・コープマンはとてもゆったりと演奏している。


トン・コープマン(オルガン)


右手(ソプラノ)、左手(テノール)、ペダル(バス)の3声で書かれた曲を、このスコアをもとに友人らとヴァイオリン・ビオラ・チェロの弦楽トリオで遊び弾きしたこともあった。

ほぼ原曲のスコアを楽譜作成ソフトPrintMusic 2008Jに入力・MIDI出力した動画を作成したので、動く譜例として参照していただきたい。テンポはヴァルヒャに近い早い設定にした。


J.S.バッハ:オルガン(オリジナル)版 譜例(PrintMusic 2008J)


この曲はピアノ曲としてもブゾーニやケンプの編曲が有名である。
ブゾーニ版は


アンヌ・ケフェレック J.S.バッハ:作品集 ~主よ人の望みの喜びを

に入っている演奏を愛聴している。
ケフェレックは情感たっぷりに弾いている。

Youtube動画では、ホロヴィッツのブゾーニ版、ケンプ自身のケンプ版の演奏を紹介する。ケンプ版のほうがオリジナルに忠実なようである。


ウラディミール・ホロヴィッツ演奏(ブゾーニ編)



ウィルヘルム・ケンプ演奏(ケンプ編)

ブゾーニ版もフリー楽譜を入手できたので、PLAYLOG休止中に打ち込んで、動く譜例を作ってみた。ピアノ版はオルガン版より記譜がややこしく、制約の多い楽譜作成ソフト上では入力レイアウトするのに少々手間取った。
MIDI出力では音が汚いしバス声部がうるさいが、オリジナルのハ短調がフラットが1つ増えてヘ短調になっている他、バス部の音を分厚く重ねてデモーニッシュに響き、終止部分の繰り返しが追加されている。


J.S.バッハ/ブゾーニ編:ピアノ版 譜例(PrintMusic 2008J)


最後にタルコフスキーの映画「惑星ソラリス」より、この曲の流れる美しいシーンである。
もうボクはこの文章を書いているだけで、映画の場面が浮かんで涙が出てきた...


映画「惑星ソラリス」より
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ヘッセ「荒野のおおかみ」 ≪長文≫ [本]

先日、かさぶらんか さんの記事のコメントのなかでヘッセの話題が持ち上がって、思わずボクは青春時代にヘッセを耽読していた頃を思い出した。

ボクは関西のメーカーに就職して間もなく東京転勤になった。せっかく大阪で友人と立ち上げた市民オケにも別れを告げて、馴染みのない東京に出てきた。
今から思えば社会人としては何にもわかっていない「小僧」であったろうが、一人でポツンと電気部品の試作・実験に明け暮れ、職場の人間関係には馴染めないで孤立していた。

そんな当時ボクの心の支えになっていたのが、読書と音楽であった。

インターネットなどなかったから、休日は神保町の書店街で過ごすのが楽しみだった。学生の頃から馴染んでいたヘッセやユング、音楽書などを買い漁っていた。

音楽はどちらかというと「聴く」よりは「弾く」ほうが好きだったので、転勤直後に入れそうなアマオケを探した。雑誌「音楽の友」の募集広告を見て、カタチばかりのオーディションを受けて、アマチュア・オーケストラ「東京ロイヤルフィルハーモニーオーケストラ」に入団した。
50人くらいの団員数、トロンボーン・チューバは入れない方針の二管編成オーケストラで、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンなどの古典派音楽をメインにし、音楽監督・常任指揮者は置かずに団員が自発的に運営するポリシーのアマオケであった。

ここでの音楽経験によってボクの音楽の嗜好が固められて現在に到っている。
残念ながらこのアマオケは後に解散してしまったが、ボクの青春時代の思い出としてずっと心の中に残っている。
アマオケなので、ただ合奏練習して演奏会に臨むだけではなく、たくさんの雑用、準備、手配、お金の遣り繰りなどすべて自分たちで分担して運営していた。
人との交渉事が苦手なボクは楽譜の手配や配布資料の準備、パーティーのときは会場の飾りつけなどを率先してやっていた。

そうして回ってきた仕事の1つが、機関誌「カフェ・ロイヤル」の編集・発行であった。


機関誌「カフェ・ロイヤル」創刊号

その創刊号を膨らませるのに代表の抱負やコンマスの思い出話の他に何かネタをと思って書いたのが、ドイツの作家・詩人のヘルマン・ヘッセに関する駄文である。
内面的にはどこか尖がっていた当時のボクが、クソ生意気に知ったかぶりや受け売りでムキになって書いていたようだ。
それでも、オケのメンバーは、モーツァルトに傾倒して大編成のロマン派音楽を避けていたような人が多かったので、小難しいゴタクを並べたような青臭い記事でも評価してくれた。

テーマとして取り上げた映画「ステッペンウルフ/荒野の狼」は現在は国内でDVD販売・レンタルされていないようである。Allcinemaのサイトではロクな記事が出ていない。
Goo映画ではまだまともに取り上げられている。

オリジナルの文章は、縦書きのワープロ書きで改行が少なくブログ向けではないが、引用の注釈以外はほとんどそのまま掲載する。


           *       *       *


ヘルマン・ヘッセの憧れと混沌の世界
             ― 映画「ステッペンウルフ」を観て ―


  「荒野のおおかみ」に到るまで

 恋愛のことを語るとなると ―― この点で私は生涯、少年の域を脱しなかった。私にとって女性に対する愛は常に、心清める思慕であった。
(「ヘッセ全集1 郷愁」高橋健二訳 新潮社 1982年より「郷愁」P.23)

 ヘッセの書いたこの一文は何度反すうしてみても、甘美な気分、憧れの気持ちを呼び醒まさずにはいない。ここに表されているのは少年時代の初恋の感情であり、その背景として物心つき始めたときの世間に対する好奇心や、将来に対する漠然とした不安と理想主義的な潔癖さなどの入り混じった心理がある。

 「郷愁」(”Peter Camenzind” 1904)、「車輪の下」(”Unterm Rad” 1906)等の作品でヘッセはこのように多感で傷つき易い少年の心を描いた。一般にヘッセに対して抱くのはこのような叙情派作家としてのイメージであると思う。しかし、ここで描かれているのはヘッセ自らの少年時代であって、いわばエリートコースから逸脱せざるを得なかった少年の屈折した内面であった。彼は自殺未遂を繰り返すような極度に神経症的で、一方詩人を夢見るロマンティックな少年であった。ここにアウトサイダーしてのヘッセの原点があった。

 その後は、インドへの憧れを主題にしたものや、西欧の没落感を踏まえて個人の精神的破綻を追及した作品が多く書かれた。第1次世界大戦中は、平和主義を唱えたため、ドイツで売国奴のように非難攻撃される。一方、妻の精神病が悪化、ヘッセ自身もノイローゼで苦しむ、こうして公私両面にわたる辛苦が、ヘッセをして心の拠りどころを求める道程へと向かわせしめ、ユング的な内面世界の追求者となったのである。ここで「デミアン」(”Demian” 1919)、「シッダールタ」(”Sidhartha” 1922)、「荒野のおおかみ」(”Der Steppenwolf” 1927)と、中期の三部作といわれる作品が著された。


  荒野のおおかみ

 「荒野のおおかみ」とは、主人公のハリー・ハラーが自分自身を蔑称したものである。ハリーは非市民的な知識人であり、自己軽蔑的なペシミズムに囚われている。文学ではゲーテやノヴァーリスやドストエフスキーなどに精神的関心を強く抱いており、音楽ではモーツァルトやヘンデルを好む。「私の青春の神であり、私の愛と尊敬の終生の目標であるモーツァルト」なのであって、モーツァルトは彼にとって精神的な永遠の美しさの象徴である。ハリーは、自分は精神病であると思って自虐的になっており、五十歳の誕生日が来たら自殺しようと決心していた。

 ハリーは「魔術劇場 ―― だれでもの入場はお断り」「入場は ―― 狂人だけ!」という看板を幻影のように見た。彼は魔術劇場を求めて歩き回り、その途中「無政府主義者的夜の楽しみ!魔術劇場!入場は・・・・・・お断り・・・・・・」というプラカードを持った男から「荒野のおおかみについての論文、だれでもが読むものにあらず」という題の小冊子を手渡される。このなかでハリーについて客観的に論述してあった。彼が荒野のおおかみ的性質と、人間的な性質の二面性を併せ持った人間であること、自殺者としてのハリー、彼の非市民性(アウトサイダーとしての性質)等々、ハリーの自覚症状を分析する。次にハリーの精神病、自殺願望、自己軽蔑の態度をより広い視野から否定し、「人間はけっして固定した永続的な形体ではない、人間はむしろ一つの試み、過渡状態である。自然と精神とのあいだの狭い危険な橋にほかならない」と、肯定的な人間観を訴える。これはハリーが孤立感からの解放へと向かうきっかけとなった。

 彼は自殺しようとしてしきれなかった晩、うろつき回って一軒のレストランに入る。そこで不思議な少女ヘルミーネに出会う。彼女もまた厭世的、悦楽的に生きている娼婦であるが、ボーイッシュな清純な魅力を持ち、聡明である。ヘルミーネはハリーの魂の導き手となって様々な命令を下すが、最後には自分を殺して欲しいという。彼女はハリーにダンスをレッスンし、ジャズに親しませる。ジャズバンドでサックスを吹く青年パブロや、ハリーの恋の相手に官能的なマリアを紹介する。こうしてマリアとの愛と、それを支えるヘルミーネによって彼はいっときの幸福に浸る。

 仮想カーニバルの晩、ハリーはマリアに別れを告げ、本当に求めるヘルミーネの姿を追った。彼女と踊り明かした後、ヘルミーネとパブロによって魔術劇場に案内される。ここでハリーは様々な幻覚を体験する。

 一つは、戦場で自動車狩りが行われている場面、これは「ブリキの安物文明世界を全面的に破壊する道を開くべく努力している戦争」であった。次に、自分の人格が無数の将棋のこまとなり、将棋さしが様々な局面を随意に形作るさまを見る。サーカスで人間使いのおおかみによって猛獣のように扱われる人間ハリー。少年時代に遡り、初恋の少女と過ごす平穏なひととき。過去のすべての女性遍歴。そしていよいよ彼岸の世界に辿りつく。「ドン・ジョバンニ」の音楽が流れるなか、モーツァルトに出会う。モーツァルトは指揮して月や星を操っている。一方、下界の世界ではブラームスが数万人の黒衣の男の大きな列 ―― ブラームスの総譜(スコア)の中で無用だとされたような声部や音符の演奏者 ―― をひきずり、救いを求めている絶望的な光景が見える。ワグナーも同様に荷やっかいな連中がすがりつくなか、ぐったり足をひきずって歩いている。モーツァルトは言う

「あまりに楽器を用いすぎ、あまりに材料が浪費されすぎている」、「楽器を持ちすぎるのは(中略)ワグナーの個人的欠点でもブラームスの個人的欠点でもない。その時代の誤りだったのだ」。
(「ヘッセ全集7 シッダールタ」高橋健二訳 新潮社 1982年より「荒野のおおかみ」P.258)

 こうした混沌とした幻想の後、ナイフを手にしたハリーはヘルミーネを殺す。やがてハリーの死刑執行となる。「ユーモアを解せぬ態度で魔術劇場を自殺期間として利用する意図を示した」罪状でハリーは永久に生きる罰に処せられ、一度徹底的に笑いものにされるという罰を受け、裁判の臨席者全員が高笑いをする。こうして絶望から自殺の試みに始まったハリーの冒険は、生の肯定に終わる。


  映画「ステッペンウルフ」

 「荒野のおおかみ」はフレッド・ハインズ監督・脚本で映画化された(1974年 アメリカ・スイス合作)。これが渋谷パルコ劇場のナイトシアターで7月18日よりロードショー後悔される。これのプレミア上映を観てきた。

 果たして映画化できるような作品だろうかと疑問であったが、思ったより原作に忠実で、難解な原作がストーリーのうえではわかり易くなっていた。

 主演のマックス・フォン・シドー(ハリー・ハラー)とドミニク・サンダ(ヘルミーネ)は好演。導入部あたりのハリーの神経症的気分がよく出ている。適度に暗く怪奇的で不条理な雰囲気が立ちこめている。それがヘルミーネとの出会いの後から原作になく明るい印象にかわっていく。ヘルミーネとショッピングを楽しんだり、ダンスのレッスンを受ける場面などはメロドラマ的な甘さに満ちていて、ハリーの深刻さが影をひそめてしまう。しかもヘルミーネ役のドミニク・サンダのとても若い清楚な美しさに魅せられてしまった。私としてはこのあたりの場面では、「荒野のおおかみ」に感じられた暗さや悲壮感よりも、むしろ前述した「郷愁」「車輪の下」あたりの感傷的な甘美さに満ちていると思った(この映画を観るまでは、私は「荒野のおおかみ」と、「郷愁」「車輪の下」等の作品をまったく別のものと捉え、両者の共通項としてオカルト的な「デミアン」を位置付けていた。ところが今回「荒野のおおかみ」がヘッセの混沌とした精神ばかりでなく、いかに憧れと、甘美に満ちた叙情的作品であるかを認識した)。

 「荒野のおおかみの論文」はアニメ、魔術劇場のイメージはビデオを駆使した電子映像で表現している。とくに魔術劇場ではウォルト・ディズニー的なファンタジーになってしまい、フュージョン的な音楽も相まって、明るくなり過ぎたきらいがある。もっと時代がかったもやけた雰囲気が欲しいように思ったが、この点は賛否両論であろう。魔術劇場に到るまでの流れからしてみるとかなり違和感があった。

 私の原作から受けたイメージとの食い違いは大きかった。ヘッセ自身の文明風刺や理想主義の観念がまったく抜け落ちている。特異なストーリーの上辺だけをさらって、映像の娯楽に走りすぎているのではないか ―― しかし、こう思う自分自身こそ魔術劇場においてハリー・ハラーの二の舞になっている。映像のユーモアを解していないのではないかと心によぎる。やがて、死刑執行の場面、最後に罰として一同の前に高笑いの的とされるのは、ハリーではなく、余りに観念的に見入っていた自分自身なのであった。

※文中の引用文は高橋健二訳「ヘッセ全集」新潮社版による
※ヘッセ評伝としては高橋健二著「ヘルマン・ヘッセ ―危機の詩人―」
 新潮選書を参考にした。 



映画「ステッペンウルフ」予告編
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バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043 [協奏曲]

前回は映画「ミュージック・オブ・ハート」を取り上げたが、本当はこの曲の記事から展開しようと思っていた。そこまで書くと横道にそれてしまうので別の記事にまとめた。

今回はこの曲、ボクにとってはたいへん親しみあるJ.S.バッハ「二つのヴァイオリンのための協奏曲」ニ短調 BWV1043について思い入れを書いてみる。
大げさに譜例などを貼り付けて長々とした駄文であるが、もし辛抱強くお付き合いいただければ幸いである...


1.作曲の背景

今ちょうどバッハ評伝

「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」磯山 雅 著(講談社学術文庫)

を読んでいるので、楽曲だけではなくその背景にも興味が向いた。

J.S.バッハ(1685~1750)は宮廷楽団のヴァイオリン兼トランペット奏者を父に8人兄弟の末子として生まれた。父だけでなく兄弟・従兄弟など親せき中音楽家だらけの中で育ち、ボーイソプラノを歌い、鍵盤楽器に親しんできた。
15歳くらいで教会の付属学校で器楽奏者として活躍し、18歳で本格的に作曲を始めたらしい。後に教会オルガニスト、宮廷音楽家として各地を転々としながらキャリアを積んでいった。
オルガニストとして教会音楽に注力した時期もあるが、ケーテンの宮廷楽長時代(1717~1723)の一時期に、領主レーオポルト公自らが楽器を演奏する音楽愛好家であったことから、バッハは重宝されて器楽曲や合奏曲の名曲をたくさん残した。
無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータ、無伴奏チェロ組曲、ヴァイオリンソナタ、平均律クラヴィーア曲集第1巻、ブランデンブルク協奏曲、そして4つのヴァイオリン協奏曲(第1番、第2番、オーボエとヴァイオリン、2つのヴァイオリン)など、器楽曲・室内楽曲の金字塔というべき名曲ぞろいである。
そのなかでも「2つのヴァイオリンのための協奏曲」はヴィヴァルディやテレマンのコンチェルト・グロッソの影響を受けながらも対位法を活かし、バッハならではの神聖さを宿しつつ、ロマンティックな室内楽曲・協奏曲として結実している。


2.2つのヴァイオリンのための協奏曲

めんどくさくなければフリーサイト(IMSLP / ペトルッチ楽譜ライブラリー)よりスコアをご覧いただきたい。
(譜例はダブルクリックにより拡大します)
YouTubeの参考音源は Tafelmusik Baroque Orchestra のピリオド楽器演奏である。ダイナミックであるが速いテンポで少々刺激的過ぎるかもしれない。

2つのヴァイオリンと弦楽合奏および通奏低音(チェンバロ)による編成であるが、2つのヴァイオリン独奏の駆け合い(対位法の極致といわれる)、さらに独奏vs合奏の対比が加わり、演奏技巧には凝ってないものの奥行きの深い音楽になっている。


第1楽章 ヴィヴァーチェ



第2ヴァイオリンの合奏で始まり、その5小節後から第1ヴァイオリン合奏で同じ音形が5度高く演奏されると、第2ヴァイオリンは裏旋律を演奏してもつれていく(譜例1)。
やがて第1ヴァイオリンの独奏が始まり、その5小節後から同じ旋律を第2ヴァイオリン独奏がカノン(あるいはフーガ)風に受け継いで...と展開していく(譜例2)。
カッチリとした厳粛な曲想である。


譜例1


譜例2


第2楽章 ラールゴ・マ・ノン・トロッポ



第1楽章から一転してヘ長調の優しい曲想になる。
第2ヴァイオリン独奏の穏やかな旋律で始まり、この旋律を5度高く第1ヴァイオリン独奏で反すうする(譜例3)。このときの第2ヴァイオリンのアルペジオの裏旋律が天国的に美しい。
中間部では第1・第2ヴァイオリン独奏が旋律を1拍ごとに掛け合いしたり、アルペジオ音形を1小節ごとに掛け合いするさまが、恋人同士の甘い語らいのように魅惑的である(譜例4)。


譜例3


譜例4


第3楽章 アレグロ



ふたたびニ短調で、第1ヴァイオリン独奏と2拍遅れの第2ヴァイオリン独奏による16分音符の厳しい旋律で始まる(譜例5)。
第1楽章、第2楽章では第1・第2ヴァイオリン独奏がほぼ対等な立場であったが、この楽章では第1ヴァイオリン優位で第2ヴァイオリンはそれを補完するように弾いている。
中間部で合奏が16分音符の旋律を弾いている間に、独奏ヴァイオリンが重音の8分音符のキザミで伴奏に入れ替わるところの緊迫感が心地よい(譜例6)。
後半部では、第2ヴァイオリン独奏と第1ヴァイオリン独奏が5小節ずれたカノン風旋律にも厳しい美しさが感じられる(譜例7)。


譜例5


譜例6


譜例7


3.紹介CD

CDではたいがいバッハの他のヴァイオリン協奏曲とカップリングされている。
ボクの聴いているCDをお薦め順で紹介する。

http://www.amazon.co.jp/J-S-%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F-%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2-%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3-%E3%82%B8%E3%83%8E/dp/B00005FIRS/ref=pd_sim_m_2[
(1)ジノ・フランチェスカッティ(ヴァイオリン)*
  レジス・パスキエ(ヴァイオリン)**
  ワルター・プリスタウスキ(ヴァイオリン)***
  宗 倫匡(ヴァイオリン)***
  ルドルフ・バーメルト(ヴァイオリン)***
  ルドルフ・バウムガルトナー(指揮)
  ルツェルン音楽祭弦楽合奏団  ]
  ・ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 BWV1041 *
  ・ヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調 BWV1042 *
  ・2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043 *,**
  ・3つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ長調 BWV1064a ***

(2)イ・ムジチ合奏団
  ロベルト・ミケルッチ(ヴァイオリン)
  フェリックス・アーヨ(ヴァイオリン)*
  レオ・ドリーフェス (オーボエ)
  ・ヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調 BWV1042
  ・ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 BWV1041
  ・2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043 *
  ・ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲 ハ短調 BWV1060

(3)エンシェント室内管弦楽団
  クリストファー・ホグウッド(指揮、チェンバロ)
  キャサリン・マッキントッシュ(ヴァイオリン)*
  ヤーブ・シュレーダー(ヴァイオリン)**
  クリストファー・ハイロンズ(ヴァイオリン)**
  スティーヴン・ハマー(オーボエ)
  クリストフ・ロウゼット(チェンバロ)***
  ・オーボエとヴァイオリンのための協奏曲 ハ短調 BWV1060a *
  ・2台のチェンバロのための協奏曲第1番 ハ短調 BWV1060 ***
  ・2台のチェンバロのための協奏曲第3番 ハ短調 BWV1062 ***
  ・2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043 **
   
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F-%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC1%E7%95%AA%E3%82%A4%E7%9F%AD%E8%AA%BF-%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%AB-%E3%82%AE%E3%83%89%E3%83%B3/dp/B00005FFY7/ref=sr_1_5?ie=UTF8&s=music&qid=1278245443&sr=1-5[(4)ギドン・クレーメル(ヴァイオリン・指揮、多重録音)
  ハインツ・ホリガー(オーボエ・指揮)
  アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ ] 
  ・ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 BWV1041
  ・ヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調 BWV1042
  ・2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043
  ・ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲 ハ短調 BWV1060
   
テンポ感(速さ)では
 クレーメル盤>ホグウッド盤>フランチェスカッティ盤>イ・ムジチ盤
である。

(1)フランチェスカッティ盤は、80歳くらいの演奏であるが気品とともに色気のある艶やかな演奏である。第2ヴァイオリンはパスキエ・トリオのパスキエでフランチェスカッティの弟子だったらしい。

(2)イ・ムジチ盤は、全体にテヌートでゆったりとしているので重たいが、とても温かな演奏である。2代目コンマス(ミケルッチ)と初代コンマス(アーヨ)による「家庭的」な雰囲気に包まれている。

(3)ホグウッド盤は資料的な価値のCDで、「オーボエとヴァイオリン」を編曲した「2台のチェンバロ」第1番(原曲は残っていないので逆に「2台のチェンバロ」から「オーボエとヴァイオリン」を復元している)、「2つのヴァイオリン」を編曲した「2台のチェンバロ」第2番の組み合わせが面白い。ノンビブラートのピリオド楽器の演奏であるがいきいきとして透明感がある。「2つのヴァイオリン」ではチェンバロの代わりにオルガンで通奏低音を弾いているところもめずらしい。

(4)クレーメル盤は、疾風怒濤の演奏であるが無伴奏のときとは違って「美音」を聴かせている。自分で第1・第2ヴァイオリンソロを多重録音しているので「対等」ではあるが、むしろドッペルゲンガーと喧嘩しているようにも聴こえる。
違った音色・個性の二重奏で聴くのがあたりまえであって、同じ人が弾くとある種のキモさを感じる。

飲物に喩えると、ホグウッドはさっぱりしたサイダー、イ・ムジチは濃厚牛乳、フランチェスカッティが甘口の白ワイン、クレーメルはほろ苦いビールであろうか。いずれも捨て難い、そのときの気分で好みが違っていそうである。


4.この曲の思い出

第1楽章は、自分で第2ヴァイオリンをカセットテープに録音して、それに合わせて第1ヴァイオリンを弾いて遊んだことがある。クレーメル盤と比較になるはずはないが、人に聴かせるとキモい演奏だったろうと思う。

まともなアンサンブルとしては、大学オケの夏合宿で遊び時間に全曲弾いた。
当時コンマスをやっていた同級生を口説いて、彼に第1ヴァイオリンソロ、ボクが第2ヴァイオリンソロで、オケ仲間には伴奏に付き合ってもらった。
あくまでも遊び弾きなので聴けた演奏ではなかっただろうが、第2楽章の美しさもも、第3楽章のカッコよさも堪能したように思う。

近年では、息子がヴァイオリン教室に通い始めた当初、教室がまだこじんまりとしていた頃は発表会で先生と二重奏させていただき、先生が1st、ボクが2ndで第1楽章、第2楽章を弾いたこともあった。

息子は小3のときに「鈴木鎮一バイオリン指導曲集」第4巻で第1楽章の第2ヴァイオリンを習っていたので、ボクの第1ヴァオリンと二重奏を練習した(第1ヴァイオリンは第5巻に掲載されている)。
そのときの演奏は先日も貼り付けたYouTube動画である。

そして、またまた手前味噌ながら(しかも既出で)動画を貼り付けるが、元びわこフィルのmattakeさんに誘われて地元のアマチュアのフェスタに参加したときの第1楽章の演奏である。
もともとはピアノ伴奏なしで二重奏だけで弾くつもりであった。
事前に2回ほど練習日を設けて本番のリハーサルに臨んだが、ホールのステージで弾くと距離感があって互いの音がハッキリ聴こえなくて、なかなか合わない。
それを見かねたフェスタ関係者だったヴァイオリンの先生が、急きょ先生のお母さんのピアノの先生に頼んで、伴奏してもらえることになった。
リハーサル室で先生に指導してもらい、とても勉強になった。
ところが本番にすっかり舞い上がってしまったボクはひたすら必死こいで弾いてしまい、音域的に鳴らせにくい第2ヴァイオリンとのバランスを無視してしまった。
最後はボクが少しばかり早めにリタルランドしようとして、インテンポのまま弾く二人とズレてしまった。
この曲はソロが各々交互に出たり引っ込んだりの駆け引きが必要で、それがアンサンブルの妙味であるが、なかなか難しいものである。


mattakeさんとボクの二重奏(第1楽章)


5.おまけ


こんなに弾けたら楽しいだろうなあ...
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